「がんばろう」とか気軽に言えない

週末に奥さんの実家である宮城に行ってきた。
3月11日の震災後“初”である。

それというのも、震災直後には先方から“来るな”と言われた。
電気も水道も、ライフラインを失った状況では、いくら身内と言えども“客人”を迎える余力というものが、現地には無かったものと思われる。
被災地見舞いは時期を見て、ということとなった。

その後は“ボランティアブーム”。

これも、被災地の関係者としては避けたい事象である。
道路を渋滞させ、現地のガソリンを使い、・・・。
到底、関係者としてできることではないのである。

そして、ついにというか、ようやくというか、1000円高速の終了。

週末は未明から渋滞という常軌を逸した大移動も収束して、満を持しての被災地入りとなった。

というか、震災、被災というものを、正直甘く見ていた。

宇都宮あたりまでは仕事の関係で月1回は行く。
そして、宇都宮あたりまで行くと、屋根にブルーシートの掛かった民家が多くなるというのは把握していた。

しかし、

しかしである。

宇都宮を越えた途端に、真新しい舗装が目立つ高速道路。
よく見れば、中央分離帯のガードレールはつい最近のものである。
さらに郡山を過ぎれば、未補修のまま放置される防音壁。
「復旧」したとはいえ、“元通り”なんかではちっともないのである。

そんな現実とは裏腹に、被災地の人たちは明るい。

その“明るさ”が、妙に痛々しかったりするのである。

そして、“福島原発”については禁句。
もうすぐそこの県境まで来ている、向こう20年間不毛の地になる“かもしれない”耐え難い現実は、見えない聞こえないなのでありました。

それでも、そんな被災地を巡って出てくる言葉は“がんばろう”。
道路を直し、突き出たマンホールを元通りにすれば、見えてくる復興への道。

その“道”が、浜通りに出た途端に一転する。

宮城県の海沿いには、“仙台東部道路”とか、“常磐道”とかよばれる高速道路がある。
震災前であれば、閑散としていて制限速度なんか不要ではと思ってしまう真っ直ぐな道。
自民党道路政策の残骸。
ムダの象徴。
そんなイメージの高速道路が、今回は本来の目的外で大活躍した。

高速道路の土盛りが堤防になって、あの大津波を堰き止めたのである。

その堤防の内側で一歩足を踏み入れると、・・・

気付かないかもしれないが、“浜街道”と呼ばれる亘理から仙台新港へと続くこの道には、両側に歩道があり、その外側には“柵”があった。
道路沿いには民家もあった。
標識もあった。
そのことごとくが、姿を消している。
水田の跡には海水が残り、車種も判別できないくらいに潰れた自動車が転がる。
むかし一緒に働いた同僚の実家も、土台だけを残して跡形も無くなっていた。

これが、震災から3ヶ月を経ての現実。
震災から3ヵ月後の被災地、なのである。

息が詰まるような惨状。
言葉が出ない。

道路は仙台新港を目前に通行止めとなり、仙台市内へと誘導される。
再び“堤防”をくぐった途端に、“現実”へと戻ってきたかのような感覚に襲われる。
所々修復の跡が生々しい“イメージ通りの被災地”。
あの、車でたった20分走った先にある“現実”が、信じられない自分がいる。

手付かずの惨状を前に、不用意に“がんばろう”なんて言えない。
言えるわけがない。

それが、“現実”を目の当たりにした本音である。