「自己責任」で片付けたくはないが、

dubrock2008-08-28


アフガニスタンでの邦人NGO団体職員拉致事件は、結果的に最悪の結末を迎えたワケだが、今回犠牲になった伊藤さんはじめ、彼らNGO団体が行っている「人道復興支援」について、今日は考えたいと思う。

そも民間団体による「人道復興支援」は必要なんだろうか。
確かに、内乱で混沌とする地域に生まれ落ちてしまったというコトについては、本人の意思ではどうにもならないワケだし、あくびが出るほど平和な日本から見れば、それは「不幸」以外のなにものでもないだろう。
その「不幸」が即ち「可哀相」というのが、彼ら民間の人道支援団体の活動の原動力なんだろう(実際のトコロは知り得ないながらも類推すれば、そういうコトなのではないだろうか)が、当人が本当に不幸かどうかなんて人それぞれであって、ソコに日本人が考える「幸せ」の尺度を押し付けるというのもいかがなものであろうか。
結局コレって、与える側の自己満足であって、そういう「富める者」の価値判断基準で成される「善行」が、万人にとって感謝されるかというと、それは「必ずしもそうではない」のではないのかもしれない。

今回のアフガンとタリバンのことにしたって、例えばのハナシ、アラブのオイルマネーの支援を受けたタリバンが「貧困から抜け出したくば、我がタリバンに加われ」と唱え、勧誘活動を行っていたとしたら、非タリバンへの農業指導と自立支援を行う団体など、ただの「邪魔者」でしかない。
また、彼らタリバンが「アフガンの平和はタリバンによる独立国家の誕生によって初めて成される」とまで考えていたならば、その動きを阻害するアメリカと、その属国ニッポンは、むしろアフガンの「平和」を乱す者であって、「敵」と見なされても致し方ないのである。

もっと言っちゃえば、ただ黙って地面から湧き出る油が1樽100ドル、110ドルという値を付け、自然と世界の富が集中する中東には、混乱とそれに伴う武器需要というものが必要不可欠であって、世界経済はそれによって中東から油を買い、武器を売ってバランスを保っているのであるから、ココに平和は訪れっこない、いや、「訪れてもらっては困る」というのが本音であって、そういう地域での人道復興支援など「まるで無意味」と言えなくもないのである。

じゃあ、ナニもしなくていいのか

というコトになるのだが、政府としてアメリカに習って14億ドルもの巨額資金を拠出しているにも関わらず「退避勧告」、つまり「アフガン国内での邦人の身の安全が確保できない」と言っているのだから、やっぱり「ナニもしなくていい」のだ。
というか、今回のコトで「今後の支援の在り方」とか問われてしまう政府としては、「ナニもしないでくれ」が本音だったのではないだろうか。

まあ、民間の復興支援と言えども「そもそもは政府の肝煎り」である場合は多く(この場合についてはどうか知らないが)、そういう見方からすれば「今更ナニもするなはないだろう」という反論もあるかもしれない。
しかしながら、退避勧告が出ていながら帰国が遅れていた理由について、所属していたNGO団体は「仕事のキリが…」と歯切れの悪い返答。
つまりは自己満足の為に赴いた人道復興支援において、「仕事の達成感」というこれまた自己満足の為に帰国を先延ばしにしていて災難に巻き込まれたワケであるから、余計なコト、とまでは言いたくないが、「ほおら言わんこっちゃない」であることだけは間違いない。

こういう場合、「日本からの退避勧告や要請があった場合には、無条件で帰国すること」と一筆取ってからの赴任でお願いしたいものだが、派遣する当のNGO団体自体が「仕事の達成感」とかをウリにしていて、かつ「当人の意思を尊重」とか言って即時撤収に後ろ向きだから始末が悪い。
そんな「ヤバくなってきたから帰りますか?」なんて当人に聞かれても、責任感の強いヒトほど「もう少し」と言うに決まっているではないか。
(現に、まだ3〜40人の邦人がアフガンに居るというから驚きだ。)

ハナシは違うが、ユニセフの「キレイな水」活動が、最近メディアに度々取り上げられる。
毎日、片道3時間掛けて、水場まで水を汲みに行くのであるが、その水も細菌などで汚染されていて、「必ずしも安全ではない」のだという。
それで、「現地に安全な井戸を」というハナシになるのであるが、何百年とその地に生活していて、何故「井戸を掘る」という行為が定着していないのか、そっちのほうが気になって仕方がないのである。

「前にあった井戸が枯れてしまった」?
なら何故自らの手で、新しい井戸を掘ろうとしないのか。
結局彼らにしてみれば、水なんて「3時間掛けて汲んで来ればイイ」のであって、「不衛生と言われようと、飲めればそれでイイ」ぐらいの認識なのではないだろうか。
でなければ、あれだけ水を必要とする地域において、「井戸掘りの技術すらない」というコトが説明出来ないではないか。

泥水で充分。
望んで、政情不安。

そう考えると、民間の人道支援の在り方も、自ずと変わって来ると思うのだ。

そもそも、何故「アフガニスタン」なのだろうか。
人道支援がしたいなら、他にいくらでも安全な国はある。
極端なハナシ、日本国内にだって、いくらでも活動すべき場所はあるだろう。
何も、自動小銃が日常の風景になっているような、そんな物騒な場所をわざわざ選んで活動する必要なんてない。

「実際に行ってみたら、そうでもなかった。」

とでも言いたいのだろうか。
確かに、政情が安定してしまえば、政府系の支援団体が幅を効かせているだろう。
それでは我々『非政府組織』(=NGO)の出る幕がない。
それも真理かもしれない。

だからと言って、だ。
だからと言って、誰も寄って付かないような地域に、わざわざ行く。
好んで行く。
その意図の裏に、「功名心」とか「物見遊山」的な感覚というのは、全く無いと言い切れるのだろうか。

そんなワケで、「息子を返して」と声高に叫ぶ件について、今回も好き放題書かせてもらった。