サクラサク

dubrock2010-03-10

姪の大学受験が、良い結果で無事終了した。

国立とはいえ、たいした偏差値ではない大学。
それもこの少子化の時代の受験なので、と高を括っていたが、直前に漏れ伝わった情報によれば、姪はボーダーライン上。
しかも「センター試験」の結果も振るわなかったというコトで、周りは相当気を揉んだらしい。

姪は、高校進学の段階では「町一番」の成績だったらしく、地元では「優等生」というコトになっている。
高校では、成績は若干伸び悩んだみたいだが、大学進学が大前提、みたいな環境で、就職活動とは無縁の高校生活を送った。

その姪が、落ちるかもしれない。

そんなハナシに、20年前受験に失敗した日のことを思い出した。

当時オレは、「学校で2番」が定位置。
志望校の東北大には「A判定」しか出したコトのない、「ガチガチの銀行レース」だった。

ところがハナシは、センター試験で殊の外良い点数を出したトコロから一転する。

同じく好得点(たしか100点満点で98点ぐらいの出来)だった「一番(東工大志望)」が突然言い出した。

「オレ、東大受けようかな。」

それまで「東大」なんて、千葉の片田舎で言うのもおこがましい存在。
あれは東京の、小学校から目指していたヤツらが行くトコロだと思っていた。

ところがヤツは本気である。

それまで使っていた東工大の受験セットをオレに渡し、あろうことかこう言った。

「(オレは東大受けるから、)オマエは東工大行けよ。」

「受けろ」ではなく「行け」と言うあたりが、当時のイケイケぶりを物語っている。

「受ければ受かる」

そういうレベルのオハナシだったのであった。

結果は、…

「一番」はめでたく東大に合格し、「二番」は、…

「落ちた」だけでなく、肝心要の物理と数学では、解法の糸口さえ掴めずに、白紙の答案用紙をただただ眺めて帰って来たのである。

プライドズタズタ。

合格発表を待つまでもなく、見事な落ちっぷりであった。
(そりゃそうだ。受験の当日まで、東工大のキャンパスが大岡山にあることも知らなかったのである。)

優等生を絵に描いたみたいな「二番手」の受験失敗に周囲は言葉を失い、そんな空気にいたたまれずに「東京で新聞配達しながら予備校進学」を決め、とっとと地元を後にした次第なのであるが、その選択が誤りであったと気付くのに、さほどの時間は掛からなかった。

ほら、よく、

「若いうちの苦労は買ってでもしろ。」

なんて言うじゃないですか。
アレってウソだよね。

苦労なんかしないほうがイイ。
夜も明けぬ早朝の神楽坂を、新聞満載のクソ重たい自転車押しながら、そう実感したのでありますよ。

姪は、落ちたらどうするんだろう。

「就職」なんて周りは言うが、この就職氷河期をナメちゃいけない。
そんな簡単に就職先が決まるワケが無いし、「もし」決まったトコロで、…

「受験に失敗した優等生」という看板で、地元に居られるワケが無い。

なんか20年先のオレとおんなじ「ミスチョイス」をしちまいそうな姪が、心配でならなかったのですよ。
(ま、結果「受かった」わけで、ワタシの心配も取り越し苦労に終わったんだけどね。)

毎年この時期になると、オヤジとマトモに向き合わなくなった「あの頃」が思い出されて、なんだか甘酸っぱくなる、今日この頃なのでありますよ。

ちなみに、これはかの西原理恵子氏もその著作の中で同じようなことを書いていたけれども、当時のワタシは、自分が「中流」の家の子だとずっと思っていた。
フツーに東京の大学に行って、一人暮らしして、毎日遊んで。
そんな「フツー」が出来ない家だったと気付いたのは、それから二年後のこと。
仙台で、一人暮らしして2ヵ月目のことである。

風呂無しトイレ共同。
銭湯はおろか、メシも満足に食えない、「憧れの大学生活」であった。

とりあえず、「おめでとう」。
でも、「合格」はゴールではなく、「新たなスタート」ですから。
頑張れ。