車掌の本分

車掌という人種は独特の発声方法を持っているので、よく物まねの題材にも扱われる。
なんとも力の抜けたそのアナウンスは、全神経を集中しても聞き取るのに苦労するので、本当にアナウンスが聞きたい時には非常に困る。
そんな聞こえるか聞こえないかのアナウンスなら、最初からしなければいいのだが、無ければ無いで不親切だと言われそうだし、全く聞こえない訳でもないので、『そういうもの』というコトになっている。

まあ、毎日乗る方が大半だろうし、毎日乗る方にはアナウンスなど不要であるので、たまに乗る少数派へのサービスとしては、こんなもんでちょうどいいのかもしれない。
たまに、国営放送のアナウンサーの様な発音の車掌もいるが、長く乗ると停車駅が近づく度に煩わしく感じるので、つまりはそういうコトなのだろう。

女性の社会進出で、女性の車掌が担当する電車も珍しくなくなった。
こちらは女子アナばりの、綺麗な発音の車掌が多いが、先日『力の抜けきった発声の女性車掌』に出くわした。

先輩車掌がそういう発声だから注意できた義理ではないだろうし、男性が良くて女性が駄目、ではまた問題になるのだろうが、その『力の抜けきった女性車掌』の違和感ときたら、ブリッコなのに無理してスケバンを演じたいとうまいこや、南野陽子の様なものだった。
いや、不良少女に憧れて、無理してタバコをふかしている中学生といったトコロだろうか。

いずれにしても女性の声に不似合いな力の抜けきったアナウンスに、昔国語の教科書で出てきたサルが車掌をするハナシを、なぜか思い出した一瞬なのでした。
いや、車掌などサルにも出来る、とかそういうハナシぢゃなくて、男女平等と女性が男らしく振る舞うのは別のハナシであって、『女性らしさ』の欠如した女性というのも、いかがなもんでしょうかというハナシ。

『仕事に性別は関係ない』という女性に限って、男性の良くないトコロである『がさつさ』とか『荒っぽさ』とかが強調されているのを見るにつけ、つくづく思うのです。
やまとなでしこはいずこへ、ってね。