受験に使えない世界史

マスメディアへの通報から始まった公立高校の履修不足問題だが、年明け早々のセンター試験を控えあと2ヶ月、文字通り最後の追い込みの時期を迎えた当事者の受験生にとっては、まさに降って湧いた災難といったトコロだろう。
背景に法律に明記されてしまった努力目標であったり、目標数値必達とする文部科学省の方針などがあったと言われているが、見て見ぬフリをしていた教育委員会としてもココまで騒ぎが大きくなっては諦めるしかないだろう。
大学進学率が全国ブービー岩手県などにとっては、「そうするしかなかった」のかもしれない。

「横浜国立大卒」を売り文句にしている真鍋かをり嬢が、「なんででしょうかねぇ?」なんて朝から寝ぼけたコメントを発していたが、「世界史は受験で使えない」というのは、大学受験を経験した人間には基本の「き」とも言える大常識ではないだろうか。
範囲が広すぎて的が絞れない、カタカナによる人名が覚えにくく「読み方」もまちまちだ、記憶力に頼った暗記勝負なので「類推」が利かない。

理系志望では数学が全ての大前提であるので相当の時間数を必要とし、さらに理科系の科目である物理・化学の負担が重く、必然的にセンター試験くらいでしか必要のない社会科の科目は後回しにされる。
文系志望であっても、「良問」と言われる東大・センター試験の過去問において、「世界史」の難易度が高いのは問題を一瞥しただけでわかる。
さらに言えば「知らなければ書けない世界史」に比べて、「大枠とポイントさえ抑えておけばあとは類推でなんとかなる地理」は、当てずっぽうでも得点に結びつくオイシイ科目なのだ。

94年あたりから「世界的な見識を持つ」ことを目的に世界史が必修になったらしいが、メソポタミア文明の特徴を暗記する以前に、「キリスト教の世界観」を知らなければ、世界で起こっていることの理解など到底できないというのが、社会人になったワタシの正直な感想だ。
認識もなく神道と仏教による世界観が全ての学生に、世界で興った文明特有の器の特徴など覚えこませたトコロで、「てんで的外れ」としか言いようがない。

履修しなければ卒業できないと対応におおわらわの学校を尻目に、一貫教育で悠々と独自カリキュラムを組む私立校。
たしかに地方の公立校から有名国立大学への進学というのは、それくらい大変なコトなのかもしれない。

先日私立大学へ納付した入学金や授業料の返還請求について、それぞれ返す、返さないの判決が出ていた。
結果は至極当然なものとだったと記憶しているが、だいたい国立大学の合格発表前に入学金の払い込みを完了させ、かつ「返金しない」という私学の横暴には受験生当時憤りを感じた。
冬休み返上で使えない世界史の授業に付き合わされる受験生の憤りを目にして、ふと受験時代の「憤り」がこみあげてきた。