一円

人によって言われ方は微妙に異なるが、「一円を笑う者は一円に泣く」的な言い回しは、誰しも聞いたコトがあるだろう。
言われたその時は、なるほどそういうコトか、うまいコト言うもんだなあと得心して、道端の一円たりとも無駄には出来ないと自分に言い聞かせたりする。
道端に一円が落ちていた時に、これを「拾う」という動作に要する労力は一円を超えるので、「一円を拾う」という動作は赤字、すなわち、たとえ道端に一円が落ちていたとしても、拾わない方が「得」という説もある。

道端の一円を拾うかどうかはともかく、何かモノを買おうとした時に、手持ちが足りなければもちろん買えない。
が、その不足額というのは果たして一円かと言うとそうではなく、「一円どころの騒ぎではない」場合が一般的ではないだろうか。
仮に、本当に一円の不足でモノが買えなかった場合どうするか。
本当に苦しくて、本当にそのモノが欲しかったら、大抵の人は「値切る」のではないだろうか。

もしワタシが店員で、客が商品欲しさに「一円」を値切った場合(105円のパンを104円差し出して『売ってくれ』と言われたら)、その客の態度にもよるが、自分の財布から1円出してでも、その値切りに応じるだろう。
その一円で客と問答をする方が、コストが掛かるのだから。
もちろん世の中には、「言ったもん勝ち」と言わんばかりに、持ち合わせも多く裕福な暮らしであって、何かにつけ値切る人種もいる。
また、値切るに際してやたらと尊大で、「お客様は神様」を履き違えた輩もいり。
そんな客には、たとえ警察沙汰になったとしても、びた一文まけたりはしない。
それはコストの問題ではないのだ。

石油の大口需要家相手にセールスをしていた時には、値引きの交渉はリットル当たり一円などとんでもなく、何十銭という世の中に流通していない単位での折衝であった。
それでも、年間何百万リットルという取り引き量にすれば、たったリットル10銭でも総額数百万円となる。
流行りの外為FX取引にしても、たった50銭の値動きで大儲けしたり、大損こいたりする。

「金額」としての一円は拾うにも及ばない存在だが、「単位・単価」としての一円は、人一人が財を成したり、また破産しうるだけの重みを持つというコトだろう。

隣町の激安スーパーに買い物に行って、荷物の重さから帰り道はタクシー、なんてマンガではよくあるハナシだが、トイレのタンクにはペットボトルを入れ、家電のコンセントはいちいち抜いて年間10円100円と節約をしていながら、週末のパチンコは「遊興娯楽費」と割り切っている主婦の皆さんも多い。
「金額」と「単位」を履き違えないように、「一円」を大切にしていきたい。