理路整然

見覚えのある男性が記者会見している。
「今回の裁判を、死刑制度存廃の議論にすりかえてほしくない。」
弁護団は、被告人の更生と社会復帰を最後まで見守る覚悟で弁護しているのだろうか。」
このハナシはたしか、1999年に山口県光市で起きた事件。
理路整然と話す男性は被害者となった母子のダンナで、本村洋さんだ。

去年の3月には、(弁論を開いたことから高裁での判決が覆る=最高裁が死刑判決を出す可能性との見解により)6月に定年退職を迎える最高裁裁判長の、定年による交代を狙った弁護団による、審理の作為的な引き伸ばしが問題になった、あの裁判のハナシだ。
当時拘留中の加害者が友人に宛てた、反省のかけらも感じられない書簡が晒されたことでも話題になった。
結局あの時の判決は「差し戻し」。
つまり高等裁判所に(無期懲役の判決については)「考え直せ」、つまり高裁の段階で死刑判決を出しなさい、というコトになっていた。

今回の差し戻し審で加害者の弁護にあたる弁護団は総勢21人。
ボンクラどもが集まって考え出した戦術は「殺人ではなく傷害致死にとどまる。被告の精神年齢は12歳程度だ」というものだった。
ああいえば上祐」というフレーズが流行語になったこともあったが、ある程度の教養と知識を身に付けた人間ならば、予め決められた結論に達するように、(どんなに不利な)いかなる状況からでも中段の論理を展開することは、さほど珍しいことでも、難しいことでもない。
それは、「教養人」「知識人」とマスコミでチヤホヤされている御仁が発したコトバが発端になって、炎上しているブログなどのコメント欄でもよくあるハナシだろう。
弁護団の中でも、法廷では後列、記者会見でもひな壇に並べなかった弁護士センセーというものには、便乗・売名行為など様々な思惑が感じられる。
その中に被告人の人間性について独自に調査をし、自分なりに得た結論として今回の主張をするに至った人というのは、果たしているのだろうか。

理路整然とマスコミに応対する本村さんを見ていると、8年の歳月とその間に交わされた議論の厚みを感じずにはいられない。
元来理屈っぽいヒトだったのかもしれないが、事件さえなければ、また死刑判決を回避しようとする弁護団がいなければ、この難しい問題についてここまでの理路整然とした意見の表明をするヒトではなかったハズだ。
裁判はあくまで、加害者がしたことに対する量刑の判断のみに終始するべきだ。
死刑廃止議論がしたいなら、司法ではなく立法のセクションで、議会の過半数を(賛同でもいいから)取るのが筋だろう。
個別の判決を回避するべく、特に今回の件には殊更に傾注してスクラムを組むことが、最善の方法だとは到底思えない。

イギリスの死刑執行人で、自ら1200例にも上る執行の記録を集めたT・J・リーチ氏も、死刑は復讐に過ぎないと語っている。
とはいえ、嫁と娘を殺した加害者がシャバに出てくるとなれば、自ら手を下したくなる衝動というものは、果たして抑えきれるものだろうか。
広島高裁・楢崎康英裁判長の判断に注目したい。