提灯記事

dubrock2007-09-03


日経新聞9月1日の社説

綾波レイに思いを寄せる男性は日本中に100万人はいるだろう。冷淡なほど無口で無表情な14歳の謎の少女。包帯姿で現れた現代の女神は日本アニメの申し子だ。その儚(はかな)げな存在感の内には、決然とした「迷いのなさ」を秘めている。

▼95年にテレビ放送された『新世紀エヴァンゲリオン』の新作映画が、きょう公開される。その準主人公の絶大な人気は10年たった今も衰える気配がない。綾波を探しマニアの街、秋葉原を歩いてみた。精巧な立体モデルの「フィギュア」は綾波だけは売り切れ。ネット競売では数十万円の値が付く希少品もある。

▼現実社会では明るく元気な者の周りに人が集まりやすい。暗く思い詰めたような人柄に魅了されるのは、なぜなのか。フィギュア製作の専門家に聞くと、綾波モデルを集めているのは30代と40代前半がほとんどだという。アニメやネットが築く仮想空間には、人の深層心理をえぐり出す魔力があるに違いない。

綾波レイが最初に「降臨」したとき、日本人はバブル崩壊で自信喪失のどん底にいた。傷だらけになって人造の巨人に乗り込み、無言で毅然(きぜん)と敵と戦い続ける綾波への共感はその時代に根ざす。フィギュアとは、無意識の信仰を形にした現代の偶像だろう。経済は立ち直っても、日本人の心には虚(うつ)ろが残ったのか。

書き出しの「綾波レイ」から目を疑ってしまうが、あの日経新聞が大マジで掲載した紛れもない「社説」らしい。
思いを寄せる男性が100万人いるかどうかはともかくとして、映画公開当日に、もともとの放映がテレ東ならば、親の日経が宣伝をしても不思議ではないのだが、「経済に強い」日経としては社説欄くらいしか載せる場所がなかったというのも容易に想像できるハナシ。
しかしその「社説として掲載」は果たしてよかったのだろうか。
掲載するにあたり、「経済に関する記述がない」という指摘はあったにちがいない。
それで、最後の一文だけ書き直された。
それくらい、不自然にこじつけられた「綾波レイと日本経済」なのだが、提灯記事を書くにあたっても譲れない「日経の日経たる所以」なのだろう。

やりたいことをやる、やりたくないものはやらない、というのはアマチュアで、プロにはやりたい、やりたくないに関わらずやらなければならないときはやる、という姿勢が求められる。
よく、「やりたくない仕事をやらされて・・・」という人生相談を耳にするが、仕事なのだから「やりたい、やりたくない」という次元ではないのである。
「モノ書き」とてそれは同じことで、「ジャーナリズムとしての理念と理想・・・」なんて寝言を抜きに、「書け」と言われたテーマについてポジティブな内容で書くのが「プロ」というものだろう。

ワタシはと言えば、このテの提灯記事はなかなか書けない。
「書け」と言われても、そもそも興味もないもの、あまり認識のないものについて「書く」なんて、しかもポジティブな内容で書くなんて、そんな思ってもいないコトを書くのはなかなか難しいのである。
それが、プロとアマの違いであって、ワタシがプロになれない(ならない?)理由なのだろうが、『エヴァンゲリオン』についてあまり詳しくはないであろう記者が書いたこの一文は、間違いなく話題になったワケだし、やっぱり「プロ」の手によるものなのだろう。

「キモい」と言われるのを覚悟でこの記事を書いた記者はエライという、そういうハナシ。
そんなワケで、今日のオマケはアスカの着ボイス。
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http://www.h6.dion.ne.jp/~w-rock/asuka.mmf
auとSOFTBANKの比較的新しいヤツなら使えるハズ・・・