世界柔道?世界JUDO?

dubrock2007-09-13


山下泰裕氏が国際柔道連盟の理事選に落選し、国際統括団体の執行部から日本が姿を消した。
と同時に、日本が推していた韓国の朴会長が辞任し、替わってオーストリアビゼール氏が連盟の会長に就任した。
ビゼール氏は「柔道のプロ化」を目指し、国際グランプリシリーズの創設とランキング制の導入を打ち出し、ヨーロッパ主導で推進していくらしい。
ヨーロッパで人気が高く、また競技人口の多い柔道の商業化と、利権収入を見込んでのコト、だそうだ。

週末に世界柔道を控え、放映権を持つフジテレビはコトあるごとに告知に躍起だが、ともにピークの過ぎた井上選手とタワラちゃんでは、興味すら沸いて来ない。
ただ、過去の金メダル獲得名シーン123、なんてのがあって、井上康生選手、タワラ、山下泰裕選手のそれぞれオリンピック金メダル獲得シーンが放映されたのだが、これを見ていて思ったコトがある。
1984年のロサンゼルスオリンピック
痛めた右足の痛みに耐えながら、なんとか決勝に進出した山下選手。
対戦相手のラシュワンは、山下の痛めた右足を攻撃しなかった、と後に語り継がれる美談があるが、そんなハナシはともかく山下選手、そのほとんどが「寝技による押さえ込み」で勝ち上がっていたのである。
120kgを超える巨漢選手の寝技。
近年の柔道大会ではほとんど見ることのない光景ではないだろうか。

好対照なのが2000年のシドニーオリンピック
アトランタの雪辱に燃えるタワラが、「最高でも金、最低でも金」となんとも香ばしいフレーズを連発して金メダルを獲得する有名なシーンなのであるが、一言でいえば「投げっぱなし」なのである。
あの時はそれほど気にならなかったのだが、1984年の山下選手と比べれば明らか。
16年の間に柔道は変遷して、「投げ技の後審判にアピールする競技」に変わってしまったのである。
これには国際大会などでの経験の浅い審判の存在も大いに起因していて、巴投げを"かけられた"選手が大きく気合の声を発した結果、見事「一本」の判定を勝ち取ったというハナシまであるくらいだ。
経験の浅い審判が「一本」か「技あり」か迷う時間を与えずに、「一本」の判定を"出させる"。
その為に、技がある程度決まったら相手選手を投げっぱなしにして競技を終了してしまう。
なぜなら、競技を継続するということは、掛けた技は「一本」ではなく、「技あり」であった。
技の掛かりが悪かったということを、掛けた本人が自覚しているから。
だからこそ、(少々技の掛かりが悪かったとしても)あの技は「一本」であるから、ここで競技は終わり。
そういうコトなのだと思う。
この状況で「技あり」の判定は、流石に出しにくい。
(いや、オレなら出せない)

でもそれって、本来の柔道の精神からすれば、逸脱しているのではないだろうか。

ビゼール氏の構想通り世界を転戦するようになれば、学生や実業団主体の日本柔道は、遠征資金に窮することとなる。
つまりは、現体制での活動が難しくなるという。
ソコが、「柔道」と「JUDO」の境目、とでも思えば、それもいいのではないかと思う。
ボクシングにも、レスリングにも、「アマチュア」と「プロ」があるのだから、「アマ柔道」と「プロJUDO」。
このテの格闘技が興行的にどうかはさておき、そういう線引きのもと世界に浸透して行く「JUDO」。
そう割り切れば、タワラの「投げっぱなし」だって、こんなトコロに書く必要がなくなるのだから。