思いやりの心を・・・

dubrock2007-09-17


最近身の回りで、健康の為にウオーキングを始めた人がいる。
それも一人ではなく、複数。
汗をかき歩くことは爽快である、とその人たちは口を揃えて言う。
それに影響を受けたワケでも、爽快を求めているワケでもないが、最近運動不足による筋力の低下と肥満が気になっていて、「時にはウオーキングもいいかな」とは正直思い始めていた。
それでもついこの間までは、猛暑で屋外の運動には不適、とか光化学スモッグだとか言われていたので、それをいいことにウオーキングも先送りにしてきた。

暑さも一段落してちょうどよい季節になってきたので、近所の公園でも歩いてみようかと思う。
トコロが同じコトを考える人は多いもので、そんなシニアに混ざって"ただ"歩くというのに、多少抵抗があったりする。
それで、"ただ"歩いているワケではないんだよ、という線引きの為、学生時代に部活で使っていた、「アンクルウエイト」なるものを付けて歩こうと考えた。
早速ドンキに出掛けて「アンクルウエイト」を買い求めたのであるが、「アンクルウエイト」も時代とともに進化していて、ただ足首だけが痛くなる昔のようなものは姿を消し、付け心地の良いものへと進化していた。(しかも安価。)

これなら普段から付けられる、と早速片足1kgのウエイトを付けて、近所のコンビニまで出掛けたワケであるが、これが結構な負荷であることに気付いたのは、コンビニを目前にした信号でのコトだった。
交差点を20メートルほど前にして、信号が青に変わった。
もちろん習慣的に小走りになるのだが、都合2kgのウエイト付きではこれがつらい。
つらいので小走りを止めて、信号が変わってしまえば次でいいさ、ぐらいの気持ちで歩く。
のだが、小走りを見ていた左折の車が、ご丁寧に横断歩道手前で停車し、ワタシが渡るのを待っているのだ。
待たれてしまっては仕方がない。
つらいのを堪えて、また小走りで交差点を横断する。
帰り道でも、横断歩道の度に自動車はコチラを見て待っている。
なので、その度に小走りにならざるを得ない。

ようやく、車通りの少ない裏道に入り、それからは自分のペースでまた歩くことが出来たのであるが、ソコで思い出したコトがある。
それは車を運転していて、目の前をゆっくりと横切る歩行者を眺めていて、怒りを顕にするワタシを嗜めて母親の言った「誰でも、自分のようにできるワケではない」という言葉。
それから、両手両足に錘を付けて、メガネで視界を狭くしたお年寄りを疑似体験する格好。
今でも、右左折で待っているコチラを意識していながら、わざとではないかと思えるほどゆっくりと横断歩道を渡る若い女性を見ていると、許されることなら轢き殺したい、いや、轢き殺してもOKというように法改正すべきだ、と思うコトもあるが、相手によっては待たれていようがどうしようもない時、というのもあるのだ。

安倍シンゾー突然の首相辞任会見を見ながら、同級生をいじめて泣かせた時のような気持ちを思い出し、できないヒトにも思いやりの心を持つ必要もあるなと、そんなコトを考えていた。