ジャーナリスト(笑)

dubrock2007-10-10


ミャンマーでの反政府デモの取材中に銃撃され死亡した日本人カメラマン長井健司さんについて、殺害される前日に撮影された映像が見つかり放映されるなど、マスコミの過熱は続いている。
この人については、銃撃された瞬間を捉えた映像が公開され、その「自らの死に直面してもカメラを放さなかった」姿が"ジャーナリストの鏡"として持て囃されている。
メディアを問わずおよそ「報道」というものに携わる人間は、恥ずかしげもなく自らを「ジャーナリスト」と自認し、ジャーナリストとしての本懐として、わざわざ危険な紛争地帯に赴いて取材活動をし、なおかつソコで非業の死を遂げた人を「ネ申」と崇める傾向がある。
この論理の中で必ず出てくるキーワードが「ロバート・キャパ」だろうか。
ロバート・キャパ」が神かどうかはここで議論する気もないが、非業の死を遂げなければ「ネ申」になれないというのがこの論法の厄介なトコロであり、傍迷惑なトコロでもある。

同朋、それも世界に誇れる「ジャーナリスト」の死を連日報じるテレビによって、この長井さんの過去の取材ビデオも何度か目にしたし、件の「前日のビデオ」もその一部を拝見したが、気になったのは当人に生命の危機が感じられていないというコト。
「前日のビデオ」では、ちょうど僧侶たちが集まって反政府デモが始まりつつある場面に遭遇し、警察当局が発砲しだしたという情報までもたらされ、現地ガイドが身の安全について保証できないと制止するにも関わらず、「自分ひとりでも取材を続ける」と豪語している。
そしてその理由として、「(自分は)イラクにもアフガンにも行っている、(だから)大丈夫」という、根拠にもならないような戯言を口走っているのである。
しかもそのアフガンについて過去に放映された映像では、既に制圧された地域を軍と動向し、「反撃がない」と何度も繰り返しているもの。
つまりは、今のミャンマーよりもシビアな状況であったイラクやアフガンにも行ったことがあるので、自分は大丈夫だ、というなんとも図々しい論理で取材活動をしているのである。

決定的瞬間を捉えた衝撃映像として、何度も放映された銃撃シーンを見ていて真っ先に思ったのが、現場に似つかわしくない彼の服装のこと。
短パンにサンダル履きで、片手にカメラを持ち、あの混乱の街を闊歩している姿。
まるで観光客丸出しの姿で、目の前を逃げ惑う群集を撮影しながら、あたかも自分は別格であるかの様な、日本人、いや、ジャーナリストであるから保護されている、ジャーナリストであるから標的にされることはないと言わんばかりの傲慢な態度だ。
そして後ろから撃たれる。
当然予測されたお約束の展開だ。
このシーンを撮影した映像も、かなり上方から俯瞰で撮影されている。
おそらく、近くの建物の上階に陣取って撮影したものだろう。
少なくともこれくらいの配慮がなければ、撃たれても文句言える筋合いではない。

連日のマスコミ報道に煽られる形で、外務省がミャンマー政府への抗議もしているようだが、このこと(銃撃)と、それから当時長井さんが撮影していたとされる映像の返還などを、外交問題としてはして欲しくないものである。
たしかに、今の政権は選挙の結果に反して軍部が作った軍事政権ではある。
圧政に民衆は不満が募り、民主化への動きも年々高まりつつある。
ただ、ミャンマー民主化されるかどうかというのはミャンマーの問題であって、ソコに必要以上に入り込む必要なんてないハズだ。
しかも、「人が行かない所にこそ、行く必要がある」という長井さんの姿勢には、売名行為とか、功名を得たいとかいったニオイがしないだろうか。
軍事政権であるのを承知の上で、長年援助を続けてきた日本政府からすれば、軍事政権と言えども友好関係を築くことが、ひいては日本の利益になるという判断によるものだろう。
今回のことで援助を打ち切るのも構わないが、ある意味死に場所を求めていた日本国籍の男一人が非常事態下で射殺されたからといって、関係を悪化させることが日本全体の利益となるのかどうかを、今一度考えてみて欲しい。

ただ仲間が殺されたと騒ぐ前に、その辺についてどう考えているのか述べてから、鳥越俊太郎あたりは「ジャーナリスト」というコトバを口にして欲しいものである。