鉄疑惑

dubrock2008-01-04


「ぬれ煎餅」で経営再建を目指し一躍有名になった銚子電鉄など、たった一両編成で大自然の中を行くローカル線は時にコミカルで、路線バスほどの大きさをついつい想像してしまうものだが、「電車」という乗り物は実物を前にすると意外に大きく、その大きさには時に驚かされてしまう。
なので「只の交通手段」という枠から外れてその魅力に魅せられた「鉄ヲタ」と呼ばれるヒト達がいたとしても、さして不思議なコトではない。
また鉄道網の発達とともにその守備範囲が広範化して、それぞれの得意分野に特化した「乗り鉄」「撮り鉄」に「模型鉄」などか生まれても、これまた不思議なコトではない。
青春18きっぷを手に列島一周を目指したコトも、時刻表を開いてはローカル線を乗り継ぐ様を夢想したコトも残念ながらないが、それでも開かずの踏切を行き交う列車に思わず見とれてしまったり、在来線と並走する新幹線を見ると何か得をした気になったりするのは、これは誰にでも経験があるハズで、そういう意味では誰しもが「鉄」の素養を持ち合わせていると言っても差し支えはないだろう。

ここに、新幹線の高架下を車でくぐる瞬間に上方を新幹線が通過し、新幹線と立体交差するコトを「至福の瞬間」とするヒトがいる。
生活圏に高架があって、それをくぐるルートが日常にあるのであれば、立体交差出来た日というのは「ラッキーな日」というコトになるのだが、時速200キロオーバーで通過する新幹線は文字通り「あっという間」であり、なかなか「ビンゴ」というのは難しい。
だからこそ「うまく交差出来た日はラッキー」なのであるが、これも「広義の鉄」と言えば言えないコトはないと思う。
この「広義の鉄」は実はうちの嫁さんであり、首都圏を行き交う列車の数々を見てやたらと興奮する様でその疑惑は確信へと変わりつつあるのだが、本人のによれば東京駅のホームに並ぶ新幹線を前に、甥に記念写真を勧める自分自身が誰より一番興奮していると気付いた時から、自覚症状はあったらしい。

嫁さんは時刻表に興味はなく、乗るコトにもあまり興味を示さない。
ただただ行き交う列車を「眺める」ことを楽しみ、荒川に架かる鉄橋上で列車がすれ違う様を首都高速環状線から垣間見れた時などは非常にご機嫌だが、だからといってそれを写真に納めるワケではない。
曰く、「撮ると撮るコトにばかり気を取られて、観るコトを忘れてしまう」のだそうだ。

分類するとすれば「観鉄(カンテツ?みてつ?)」。
たかが「見るだけ」と言うなかれ、見慣れないビューポイントから多数の列車が行き交う様を探求し続けるその「鉄」は、もしかしたらどんな「鉄」よりも贅沢な「鉄」なのかも知れないと、最近とみに思うようになったのである。

あしたは、鉄道博物館だろうか。