好好爺

dubrock2008-01-05


年始の挨拶を兼ねて、実家に顔を出してきた。
例年であれば伯母一家がリゾート気分で押し掛けてくるのが常なので、この時期の実家は敬遠の四球なのだが、昨年の盆にオヤジと一悶着あったらしく今年は来ないというコトなので、それではと出掛けた次第だった。

正月だから誰かは居るだろうとほとんど連絡もなしに訪れると母親は不在で、オヤジは居間のいつもの場所でテレビを見ていた。
そのボリュームの大きさが最初に気になる。
右か左か、どちらかが遠くなっていて、その方から呼び掛けても聞こえないとは聞いていたが、たいした内容もないバラエティー番組を不自然な大音量で視聴しているとなると、左右を問わずかなり聞こえていないらしい。
齢70とはいえ、実の父親の「老い」と「衰え」を目の当たりにしてそれを受け入れるには些かの抵抗があるワケで、息子でさえそうなのだから当の本人は尚更であろう。

と、CMの待ち時間が我慢出来ずにチャンネルをザッピングする。
この苛立ちも以前よりひどくなっている。
「歳を取ると短気になる」と言うし、確かに最近のバラエティー番組のいわゆる「CMまたぎ」はあまりに露骨で不愉快ではあるが、スポンサーの広告料によって番組製作が成立っているのが「民放」であり、そんなコトなど説明しなくとも百も承知なハズなのに、スポンサー広告を「見せられる」コトがまるで時間の損失であるかのように、ザッピングは繰り返される。
そして、従前観ていた番組を忘れてしまうので、こちらまで続きを観れないまま付き合わされるコトとなる。
また、番組が切り替わる毎時57分以降など、各局のCMを避け続けた挙句にNHK-BSへと辿り着き、「大自然クラシック音楽」みたいなものを正月から眺めるハメになったりもする。
この、同席者への配慮のなさ、いわゆる「傍若無人」も年寄り特有であって、年長者が若年に気を使って「チャンネル権を譲る」というのも不自然ではあるが、しかし自らが観たい番組でもないのにチャンネルを合わせ、「そのことを気にも掛けない」というのは顰蹙を買う。

実家には甥と姪が居て、たまに現れる叔父は「体の良い遊び相手」ぐらいに思われているので、当然のように側から離れないのだが、彼らにしたって「大自然クラシック音楽」は退屈で興味もそそられず、かと言ってせっかく来た「遊び相手」から離れるのも惜しいので、居間にニンテンドーDSなど持ち込んでスーパーマリオなどに興じるコトになる。
ワタシにしたって「大自然クラシック音楽」には興味が無いので、甥のスーパーマリオを観戦するのだが、年寄りはコレが気に入らない。
「みんなで団欒しているのにゲームとは何だ」と未就学児童相手に対抗心むき出しなのである。

そんな雲行きを敏感に察知した甥と姪は、「遊び相手」の叔父を連れて別室へ。
居間にひとり残されたオヤジは出掛けていた母に八つ当たりの矛先を向け、帰宅した母が応戦して嵐となるのである。

離れて暮らす長男の帰省なんていつもこんなもん。
結局不穏な空気を残したままお暇するようになるので、この「フラっと帰る息子」は母親にとってこれほど迷惑なものはないだろう。
帰る度に帰らなければ良かったと思い、では事前に帰省を伝えておけばとも考えるのだが、出発から到着、逗留中の行動計画から帰路に就くまで勝手に予定されるのもまた窮屈。
世の皆さんの「帰省」とやらもこうなのかと、是非とも伺いたく思う次第なのである。

それにしても今回痛感したのは、「年寄り、すなわちオヤジ(実父)の幼児化」という事実。
年々成長する甥や姪との対比によって、そのことは尚更鮮明になるのであろうが、次回あたりオヤジと甥姪との社会順応性が逆転しているであろうコトを思うと、その先にある「痴呆」と「介護」という現代社会では避けて通れない道に、自分もまた足を踏み入れてしまっているコトを痛感するのだ。

直近の記憶が曖昧なのに、過去の記憶はしっかりしていて、何より本人にその自覚がない
中途半端に体は丈夫。
聞こえないのか聞く気が無いのかヒトの意見には耳を傾けず、そして頑固。

こうこうや【好好爺】
[意]円満で人のよさそうなおじいさん。
[例]穏やかな好々爺。

そんなものとはまるで真逆なオヤジではあるが、世のオヤジとは得てしてこんなものではないだろうか。
果たして、「好好爺」など実在するのであろうか。
実在するなら、是非とも見てみたい。
そう思いながら、足取り重く帰路に就いた一日だった。

耳が遠くなったコトは、いつ、どうやって伝えればいいのだろうか。
血統的にオイラも、好好爺にはなれないのだろうか。