都会の猫

dubrock2008-07-28


新聞の投書欄に、「隣の飼い猫が庭で用を足し、ノイローゼになりそうだ」という相談が寄せられていた。
ネコババ」とは猫のババ(糞)のことで、猫がそれを、あたかも他人に知られないように丁寧に埋める様から、転じて人様のものをこっそり隠してしまう意味が生まれたと聞く。
実際、ワタシがガキの頃飼っていた猫などは、よく隣の畑で用を足し、それを丁寧に隠していたものだった。

しかし、最近の都会の猫というものは、いつの頃からかキチンと「ネコババ」を隠さなくなったようである。
友人の近隣には野良猫に給餌をする「えせ愛猫家」が居るらしく、周辺のアパートは玄関周りからベランダに至るまで、至る所に「ネコババ」が散乱し、うかうかしていると「つい、うっかり」やらかしてしまう要注意ゾーンとなっている。

「んな、ソッチが勝手にコンクリートだらけにしといて!」

という猫の声が、どこからともなく聞こえて来なくもないが、履き物に付いた「ババ」というのは屋内では結構臭う。
かといって臭いを我慢して洗うのもシャクだし、というコトで、やっちまった草履を「燃えないゴミ」にした瞬間に、ちゃんとババを隠さない猫への怒りが芽生えるのである。

また、近所のうなぎ屋のオヤジの車というのは、まず滅多に出掛けているのを見ない見事な「置物」なのだが、コイツがたまに出掛けた後というのがこれまた悲惨。
土に埋めるのを諦めた猫たちが隠したババで、それはそれは大変なことになっているのである。

ハナシを戻して投書の件。
紙面では評論家なる人物が、「自分も愛猫家」と断りを入れながらも、「隣家に愛猫の行状について報告し、対応させよ」と回答。
すればさらに、「隣人はお詫びにと、菓子折りなど持参するかも」と何処まで行っても平和ボケの的外れなのである。
これでは相談者のカタルシスは解消されない。
というか、直接言えるなら最初からそうするのであって、新聞の投書欄で相談するような面倒臭い手続きは踏まないだろう。

見覚えのある猫は毎度用を足しに庭を訪れるが、当の飼い主は素知らぬ顔。
というか、まるで隣の庭で用を足して来いとでも、言われているかのよう。
なのに、波風を立てたくなくて、面と向かって隣人にそれを言うことが出来ない。
そんな時、小市民はどうすればいいのか、どうすれば「大人の対応」なのかと問うているのだ。

ワタシならこう答える。
「毒団子を仕掛けなさい。」

材料は薬局で売っている殺鼠剤が手頃でいいだろう。
しかし敵もさるもの。
ただ置いただけでは見向きもしないのである。
なのでコイツと、半額セールになった豚挽き肉などを交ぜて「団子」を作る。
出来上がったら、「ヤツら」の来そうな場所にさりげなく置いて、登場を待つコトにする。

たったこれだけで、これまで嫌で嫌で仕方がなかった隣家の猫の訪問が、何とも待遠しい時間になるのである。
そして来たのみならず、団子に近付き、臭いを嗅ぎ、そしてついに口にした瞬間と言ったら!
思わず「やった!」と声を上げてしまうのではないだろうか。
脳内にドーパミンが分泌され、カタルシスが解消される瞬間である。

実際、飼い猫が帰宅後に吐血、息絶えたというハナシは、都会ではそう珍しくない。
対応策として愛猫家は、飼い猫を外出させない。
これも常識になりつつある。
今の時代に、外で用を足すようにしつけた「飼い主」が悪いのである。

断っておくが、ワタシは犬も猫も、おおよそ「ペット」と呼ばれるもの全てが好きであり、週末のホームセンターではペットコーナーに並ぶ子犬に子猫を眺めては目を細め、「いつかは」とそのタイミングを虎視眈々と狙っている一人である。
人一倍好きな方である。
好きだからこそ、ろくなしつけも出来ないえせ愛犬家にえせ愛猫家が、誰よりも許せないのである。
可愛いがれば済む、というハナシではないのだ。

そして先日も、我が家の玄関先で用を足した隣家の愛犬の為に、2度ほど殺鼠剤をバラ撒いた。
「雨が降っていたから」
「犬が勝手にしてしまってたから」
言い訳はいかようにも出来るだろうが、それでいてその始末をしようとしない、その姿勢が許されていいハズがないのである。

これだけで、これまで苦々しく見ていた隣のババアの「犬の散歩」も、待遠しくなるのである。
しばらく見ないと、「あの犬、もう死んだかな。」
そう心踊らせる自分が居るのである。

日常に潜む凶暴性。
いや、図々しいヤツらが幅を効かす都会の生活に於いて、小心者には小心者の処世術があってもイイと思うのだ。
ま、こんなハナシ、まさか見識ある新聞には、載せられないだろうけどね。w