益川流

dubrock2008-12-10

「アイ・アム・ソーリー・アイ・キャン・ノット・スピーク・イングリッシュ」から記念講演を切り出した、ノーベル賞3氏の中でも「ずば抜けて奇人」の益川敏英氏ではあるが、…。

まさか68にもなって、国内はおろか「全世界」に、その「英語が出来ない」という醜態を晒そうとは、語学を諦めた10代の頃には思いもしなかっただろう。
語学がとにかく苦手で、その苦手を克服するくらいなら、克服するべく時間を費やすくらいなら、むしろ得意科目で挽回すればいい、とあっさり履修を諦めたという、お世辞にも「お手本」にはならない教授センセーだ。

「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」

子供に「勉強しなさい」と口やかましく言ったら、そう聞き返されて絶句した、という人生相談をよく見掛けるが、何故親はこの質問にシンプルに答えることが出来ないのだろうか。
一言で言うなら「社会に出て恥をかかない為」であって、「生き方の選択肢を増やしておく為」というのが次点として挙げられるだろうか。
誰も、学者になる為に勉強しろとは言っていないのである。

知識は人を豊かにし、また荷物にもならない。
受験勉強では使わなかった「日本史」だって、その由来を知らずに訪れる京都奈良鎌倉がどれほど味気無いものか。
「源氏最後の将軍を暗殺したヤツが隠れていたのが、この銀杏の木」なんて蘊蓄が加われば、「ただの銀杏の木」もまた見え方が違って来るのである。

「英語はまだしも、(大学で履修する)第二外国語は無意味だろ?」という意見もあるが、世界は英語圏だけではない。
そもそも、その英語圏ではラテン語の素養が求められるというのだから、語学がどれくらい大事かは疑う余地が無い。

それらの知識を持つことで、就業にも幅が出来て多くの選択肢の中から様々な人生を歩むことが出来るようになる。
途中からの方向転換も容易だ。

対して、ある一つの興味を持った事柄だけに集中して、以外全てを排除して特化する。
これが「益川流」。
ガリレオ式に「実に合理的」であって、苦手科目の克服に腐心している学生にとっても好都合。
それが通用するなら、いっそボクも物理の成績だけで東大入れてくださいと、夢想している受験生も多いのではないだろうか。

「語学の単位が無くても、例外的に卒業が認められた。」
それくらい、「ずば抜けた物理学の才能。」
でも、発表から数年後の検証で、「どうやらそうらしい」と授賞が決まった「ノーベル賞」が無ければ、「ただのキチガイ教授」でしかない。
奥さんと買い物に行っても、レシートの裏に計算を始めてしまう「天才」。

まだアメリカに移り住んで、クラゲをひたすら切り刻んだ巨匠のほうがカッコいい気がするが、語学がダメなので「アメリカ」という選択肢までスポイルされた「背水の陣」が、氏を研究に駆り立てたのだろうか。
でも、「カタカナ英語だった」とか「お土産にチョコレートを600コ買った」とか、報道にどこか嘲笑が混じっているのが気になる。
ノーベル賞取ったこのオッサンは、こんなに変なんだよ」、っていう。

一点に特化して資本を集中させるというのが子育てでもトレンドのようで、マスコミもそういう事案には飛び付いて得意気に報道するが、石川遼なんかはごく一握りの「特例」。
凡人の子は凡人らしく、何事にも「ツブシ」が効くオールラウンダーにするのが無難であって、定石であるのだが、そういう環境からは「ノーベル級」のウルトラCは出て来ないという「益川理論」。

子育てにはこれっぽっちも参考にならない、「いいオッサンが世界で恥をかくハナシ」だった。
学習院を出てアメリカに留学し、そのアメリカ訛りを指摘されて渡英した、なんて経歴を聞けばたいしたもんだが、漢字、それも日常使うレベルのものが書けないならまだしも、「読めない」。
「勘違い」では済まされない読み違いで、ようやくなった総理の資質まで問われているヒトのハナシではない。