それを言っちゃあ、おしまいよ

dubrock2009-01-10

ニューヨーカーがテレビの取材で「何故車を買わないのか」と問われて言う。

「高すぎるから買えないんだよ。」

昨年自動車関連の賞を総ナメして称賛された「トヨタiQ」、これのチラシを見て驚いた。
希望小売価格160万円也!
「ナビだのなんだかんだで200万になっちまうじゃねえか!?」
なのである。

コンパクトなパッケージングに4人乗り、とはいえ、ワタシのような閉所恐怖症には拷問の後部座席。
荷物置きくらいにしか使えなそうだが、「無いよりはマシ」。
それを、「天下のトヨタが作った」ってので、「スマート」や「ツイン」の二番煎じ、とは言わないで、スゴいスゴいと絶賛する。

あれだけ褒めたたえるからには、お値段もさぞかし安いんだろうと、7、80万で買えるんだろうと勝手に解釈していた。
それがなんだかんだで200万とは…
でもこの車に対して、「高い」とか言っちゃあいけない流れなのだ。


「大型高級セダン」と呼ばれるカテゴリの車で首都圏を走ると、まず間違いなくない警察官の職務質問を受ける。
そして「嫌疑ナシ」となると最後は決まって、冗談まじりに「お兄さんはヤクザではないんですよね」と聞かれるらしい。

大抵の人は「ちげーよ!」と憤慨するらしいが、この場合どちらかと言うと警官が正しい。
この不況の時代に、カタギでそんな大きな車を乗り回す必然的理由が、見当たらないのである。

「クラウン」や「フーガ」といった大型セダンは、今や個人タクシーが主流。
その事業目的の自動車にしたって、仕上がりで700万円を超える最新型は、「さすがに新車では買えない」という意見が大半のようだ。

モデルチェンジの度に若干の排気量アップとサイズアップが行なわれる。
それはオーナーの社会的地位向上に合わせたものであり、モデルチェンジの度に同じ車種に乗り続ければ、いずれオーナーにふさわしい車が提供され続ける。

コンセプトはイイのだが、どこかの段階で車だけが一人歩きしてしまったようだ。
「コンパクトなファミリーセダン」だったカローラは、気が付けば5ナンバー枠いっぱいいっぱいまで巨大化し、街で昭和40年代のそれを見掛けると、その「小ささ」に驚かされる。
「乗っても15年」の自動車に、中古住宅買えるくらいのカネを出してる場合じゃないのである。

日本の自動車界はその「ダブルアップゲーム」で成長し、肥大化した。
「下取り査定があるから」と長いローンを組み、返済途中で売却してしまう。
構造的にはアメリカのサブプライムローンと同じである。

オリックスの出した「残価設定プラン」はその末期だろう。
「所有している間は支払い続けるカーライフ」なんて、消費者におトクでも何でもないのである。


トヨタに批判的なハナシは、メディアに報じられない」と言われる。
車作りというよりは、商売に長けたトヨタの、その広告料によって成り立つメディアがほとんどだからだという。

そのトヨタがコケたのは、果たしてリーマンショックの煽りだけだろうか。
いずれ一か八かのダブルアップゲーム。
顧客ニーズから乖離した新型車開発。
ビッグ3と程度の差こそあれ、根っこは同じではないだろうか。

と、考えると、今回の「派遣切り」を招いたのは、果たして「製造業への労働者派遣解禁」だけなのだろうか。
直接的にはそうだとしても、それは日本が抱えていた構造的欠陥。
「派遣切り」でなければ「契約社員切り」、どっちみち生産調整の為のレイオフは行なわれるのである。
「コイズミ構造改革路線が間違いだった」とタクシーの総量規制に踏み切った時と同じ違和感。

まあ、時の宰相が「既得権益の塊」みたいな人物だから、風潮から施策までもが懐古調になるのは致し方ないとして、それに乗っかる民主とマスコミってどうだろう。

紙幣乱発してインフレ政策を、と唱える週刊誌の見出しに、妙に共感してしまう今日この頃なのである。
「高くて買えない」?
それを言っちゃあ、おしまいよ。