オヤジとのこと

dubrock2009-10-15

社員研修などでよく使われるという、「鏡の法則」という短篇がある。
「ハンカチなしでは読まないで下さい」なんて言われてはいるが、内容は「自分が変われば相手が変わる、自分が変われば世界が変わる」というこのテでは「よくあるハナシ」。
ソイツを、息子の「いじめ」に悩み「A子」が謎のコンサル「B氏」に導かれて反発してきた父親と和解し、と同時に息子の「いじめ問題」が自己解決されるという感動のストーリーに仕上げたものである。(棒読み)

その、うさん臭い展開には賛否が分かれ、こんなものを題材に啓蒙教育されてしまう企業戦士たちには大いに同情さえしてしまうが、「末期がん」の宣告を受けた父親の死期が近いことを思うと、そこに書かれていた手法を少し真似してみたくなった。

そこで、時系列を辿って父親とのことを思い起こしてみようと思う。

まだ小学校に上がる前、「クワガタ採り」に連れて行ってもらったコトがある。
まだ夜も明けぬ夏の朝、愛車「ホンダ・シビック」に乗って近くの雑木林に出掛けたのだ。
結局成果はほとんど無く、道に迷い、「獣道」みたいな林道を雑草を掻き分けながら進み、「戦車みたいだな」と笑っていたのを覚えている。

「ホンダ・シビック」では母親の実家である「青森」などあちこちに出掛けた。
青森に行ったコトは間違いないのだが、覚えているのは後部座席から見た運転席の背もたれと、「静かにしてろ」ど怒鳴られたことくらい。
子供の記憶などそんなもんだろう。

今思えば、当時盛岡までしか「東北道」は開通しておらず、ソコから先は「ひたすら4号線」。
それも、「バイパス」などほとんど未整備の道を1300ccのポンコツで走るのは、さぞかし大変だったろうと思う。
まだオヤジも若かったのである。

小学校高学年の頃は、館山湾によく「鱚釣り」に行った。
早朝4時ころからゴムボートで沖に出て、日差しの強くなる8時ころには引き上げる。
帰ってゴムボートを片付けても昼前という、お手軽なレジャーだった。
釣れるのは「ネズミゴチ(メゴチ)」ばかりだったけど、たまに釣れる鱚の手応えは今でも忘れられない。
その日の晩は決まって天ぷらだった。

それも中学に上がり、「部活」が始まるとほとんど無くなった。
潮流が変わり「ほとんど釣れなくなった」というのもあるだろう。

それから高校を出るくらいまでは、あまり記憶が無い。
無いながらも、祖母の葬式で真冬の青森、翌年の一回忌では仏ヶ浦まで足を伸ばし、ってのはオレが高校の頃だったハズだ。

この頃まではオレ、「いい子」だったからねぇ。

オレがオヤジに本音を言わなくなったのは、たしか高校3年の冬、同級生に唆されてそれまで東北大一本だった志望校を急遽東工大に変更。
二次試験の物理・数学に手も足も出なくて、ビビって滑り止めに受けてた早稲田に「とりあえず入学金振込んで」って電話した時かなぁ。
あっさり「そんなカネは無い」って言われて。
悔しかったね。
「じゃあなんで受けさせたんだよ」ってね。
受験料の3万はオレのバイト代から出したのにって。

そんでバカらしくなって、その年は神楽坂で新聞配りながら予備校に行くことにしたんだ。
貧乏だったねぇ。
米買うカネが無くて、「麦だけ」の飯を炊いて食った。
とても、食える代物じゃなかったけど。

大雨の中、ズブ濡れになりながら自転車を押してて思った。
「これは割に合わない」って。
1年分の授業料と、四畳半一間風呂なしトイレ和式共同のボロアパート、それに5万ちょっとの現金。
朝晩12時間おきに拘束されて、それでこの労働の対価はこんなもんなのかって。

そして、こんな間違った判断をする息子に何のアドバイスも出来ないオヤジを恨んだね。
「こんなコトするぐらいなら、他にいくらでも選択肢があるだろう」って、言って聞かせるのが「親」じゃないかって。
口もきいてなかったけど。

翌年は自衛官になるべく、防衛大学校に入校した。
ココが「大学」じゃなく、「大学校」であることを知ったのは、入校が決まってからだった。
まあ、「大学みたいなもん」ってトコロかなぁって、それぐらいの認識でしかなかった。

「ココを出れば50過ぎまで安泰な人生が得られる」っていう空気に馴染めず翌年東北大に入り直すワケだが、その時にはオレよりずっと成績の悪かったヤツらが一浪して先に入学、いわゆる「先輩」になっていて、2コ下の同級生にタメ口まできかれる毎日。
馴染めなくてバイトに明け暮れてた。

つうか、バイト先に自分の居場所を見出していたんだろうなあ。

それで、4年後にバイト先のガソリンスタンドにそのまま就職。
「いきなり店長」というオレにとっては好条件だったんだけど、まったく賛成はされなかった。

この頃オヤジは、「紫斑病」という難病を患い入院。
自衛官退官後に再就職していた職場も退職していた。

原因不明の「血の病気」で、オヤジはこの時自らの「死」について強く意識したらしいけど、原因不明の難病は原因不明のまま、何故か1年ほどで症状が治まり退院。
オイラは営業本部、本社と順調に昇進して、30前で「課長」になってしまった。
そして結婚。

これぐらいの親孝行はないと世間では言うけれども、・・・

結納のカネを出させられたのが気に入らなかったのかなぁ。
毎度「カネ」が絡むと関係がギクシャクする親子だったのであります。

言ってるうちにオヤジは心筋梗塞でステントだバイパスだと何度か入院を繰り越し、息子はせっかく出世した会社をあっさり辞めて「ゴロツキ」みたいな生活になって、現在に至る。

期待持たせた割に、あんまり偉くならなくてゴメンな、オヤジ。

反対を押し切って入った会社は、今は見る影も無くなってしまったけど、「過去」があるから「今」がある。
オレ、そう思うんだ。

本当はコレを、電話で伝えなくちゃならないらしいんだけど、そんなのとっても出来そうにないので、ココに晒しておくことにします。
症状がこのまま、落ち着くことを祈って。