夢かうつつか
「末期がん」の宣告を受けて入院していたオヤジが退院して、ちょうど2週間が経った。
退院後1週間で点養が外されたオヤジは、めっきり痩せて「ふとんが痛い」と言い出した。
それもそのはず背中にあったはずの肉はあっという間に消え失せ、皮一枚で背骨が透けて見えるようである。
世の中にはいろんなものがあるもので、介護用品専門ショップからレンタルしたのは、床擦れ防止用の「エアーマット」。
これがただの風船と思ったら大間違いで、堅さがソフト・ノーマル・ハードの3段階に選べて、姿勢を水平に保つように各部のエアー圧を自動制御。
のみならず、マット内の空気を自動で入れ替えて、熱が籠るのを防いでくれる「優れ物」なのである。
しかもこれで、月々のレンタル料が800円というから更に驚きである。
しかしながら、「末期のがん患者」にはそれだけで足りるはずもなく、「痛み止めの皮下注射」が四六時中自動投与されていた。
この「痛み止め」がまたスグレモノで、定期的な薬剤の注入で足りない、すなわち本人が痛みを訴える場合には、ボタン一つで薬剤の追加注入が行えるというのである。
ホスピスも随分と進化したものである。
しかしながら、進化したこの「緩和ケア」には盲点があって、それは「薬剤を入れ過ぎると、本人が起きなくなる」というもの。
せっかく自宅に帰って贅沢に訪問看護で暮らしているというのに、「24時間眠ったきり」では意味がない。
(「寝たきり」ではなく「眠ったきり」である。)
それで、若干痛みを感じる程度の薬剤注入で「覚醒」を促すのであるが、・・・
もうね、「腹水」が溜まりに溜まって、それが辛くて苦しくて、・・・
で、溜まった腹水が膀胱を圧迫するから、「尿意」がある。
腹の張った感じはちょうど「屁」が溜まった感じであるから、「ここで『デカい屁』でも垂れれば、さぞかしスッキリするだろう」と考える。
でも、間違って「本体」など出てしまったら、・・・
(70を過ぎて「ウンコたれ」にはなりたくない。イイぞ、オヤジ。)
そう考えると、
「とりあえずトイレに座ってみよう。」
というのが自然な流れであって、一人ではもうマトモに立つことも出来ないから、奥方を呼んで、・・・
やっぱり、息子にケツを拭かせるのはイヤかい?
オヤジ。
そんな呼び出しが、30分から、1時間に1回。
いや、本人にしてみれば、
「そんなに頻繁には呼んでない!」
って言うんだろうな。
クスリで、時間の感覚か、もしくは「記憶」がなくなってるんだよ。
で、そうなったのは「ここ数日」であっても、呼び出される方はたまったもんじゃない。
すっかり介護疲れしてしまって、ちょっと寝込んで、そして「ハッ」と目を覚ますと、そこには、一人で便器へと座ったオヤジの姿が。
誇らしげに、「これでいいだろ?」
と問い掛けるオヤジは、まんまと「フタ」の上に座っていたのである。
介助の奥方はうかうか居眠りもしていられないのである。
それでいて、すっかり機能不全になった腎臓から尿は出ず、ろくに何も食べていないから心配していた「本体」も出ず、期待された「ガス」は出るものの、それで「腹水」による腹の張りが解消されることもなく、・・・
「えいクソ!なんとかならんかの!!」
久し振りに聞いた、オヤジの「えいクソ!」であった。
ベッドに戻り、しばらくぶりに顔を出した息子と正対する。
「今日は泊まっていくのか?」
「オレももう72だ。」
「いや、大変なことになっちまったなぁ。」
発する言葉は断片的で、発したかと思ったら寝息を立てていることもあるし、発しながら眠りに落ちることもある。
話が断片的なのは、おそらくは夢で続きを喋っているのか、はたまた夢の続きを喋っているのか。
ともかく、「クスリ」が効いちまって、ふとんに横になったら覚醒が保てないのである。
しかし最後に、かなりはっきりとした口調で発した言葉が、
「今日は寿司にでもするか!?」
「おお、いいねえ。」
なんて適当なことを言って済ませたが、返事を聞いていたのか否か。
あとで聞いたのだが、最近また流動物だけでなく、「固形物」を欲しがるようになったのだとか。
(そりゃそうだ。あの「飲ん兵衛」のオヤジが、そう何日も「飲むヨーグルトだけ」で満足出来るはずがあるまい。)
「なんか、堅いものが食いたい。」
「『堅いもの』なんか食べたら死ぬんだよ?死ぬのが分かっていて、『堅いもの』は食べさせられないよ!」
アレ?
オレ的には、
「最後は脂たっぷりのベーコンでも食わせて、・・・」
と思っていたけど、母ちゃん的には
「まだ死なせられない」
なのかい?
介護疲れでフラフラの奥方がそう言っているうちは、「堅いもの」を食わせるわけにはいくまい。
取り付くシマもない奥方に痺れを切らし、訪問看護士を医師と勘違いしてオヤジが言う。
「先生、何か食べては、ダメですかねぇ。」
聞かれた方はお茶を濁すわけにも行かず、「担当の」医師に聞いてみると言い残してそそくさと帰って行った。
そろそろ、オヤジの「なんか食わせろ」もクライマックスなのである。
人生のエンドロールが流れるバックで、美味そうにトロを頬張るオヤジの姿が映るか否か。
これは今まで、黙って何でも言う事を聞いてきた奥方の、「最後の抵抗」でもある。
「これならば」ということで、ようやく奥方から許された「固形物」が、「オレンジジュースを製氷皿で凍らせたもの」。
「1コだけだよ!あんまり食べると、また寒くなるんだから!」
そう言われながら、美味そうにポリポリと「オレンジの氷」をかじるオヤジが、「子供帰り」しているように見えた。
オヤジ、悪いが今日の寿司は、中止だ。
挨拶もソコソコに実家を後にした次第なのである。
オヤジ、まずは「歳」を越してみよう。
来年は年男だ。