死んだら英雄になれるという現状にこそ問題がある
村本さんという記者が、タイで取材中に亡くなった。
その、「最後の5分間の映像」というのを観たが、あの状況でなおも撮影し続ける神経を疑ってしまった。
それが、記者魂
とかいうハナシを聞きたいのではない。
真実を追究する美談でもないし、その「死」に意味なんか無い。
ただ、無謀なだけ。
日本という国に生まれて生きていれば、まさか自分が銃弾に当たって死ぬなんて、思いもよらないことだろう。
そういう非日常の光景に「スクープ」を確信し、我を忘れたのだろうか。
はたまたファインダー越しの光景を「テレビの向こう側での出来事」と誤認したのだろうか。
「撃たれた」のではない。
「飛んできた銃弾に当たった」のである。
そういうことがいつ起きてもおかしくない状況に、漫然と身を曝していたのである。
それでも、「日本人が死んだ」ということで外交問題にもなるし、「ジャーナリストが死んだ」ということでメディアが祭りにもなる。
「自己責任」とかいう言葉で片付けられない、憤りを感じてならないのである。
その少し前には、「麻薬密輸」の罪で死刑を宣告された日本人の刑が、中国で執行された。
んな、「麻薬密輸」で「死刑」て!?
なのだが、「2.5Kg」という企てた密輸量を聞けば、中国司法当局の判断にも合点がいく。
「魔が差して」とか「出来心で」とかいう次元ではないのである。
「日本の司法制度では、麻薬密輸で死刑になることはない」
なんてな論理で、支援を行う活動家も居たらしいが、「日本人だから」という理由で放免されては中国政府の面目が立たない。
極刑も有り得る中国で、麻薬密輸を企てた当人の問題なのである。
そんなワケで、
「やっちゃダメ」と言ったことは、やっちゃダメ。
そんな、ガキの頃に言われたことを思い出した、今日この頃なのである。
取材中に死んだからって、「英雄」なんかじゃ決してない犬死のハナシなのである。